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昭和51年3月1日創立 お元気でしょうかお伺い申し上げます

北九州若松で生まれた海洋磯釣倶楽部の歴史

海洋の基礎を築いた恩師

  海洋の基礎地を育んだ恩師
   それを支えた多くの先輩達
    古き良き時代の「釣心」を共遊した仲間達
     その熱き心を貴方へ


 2012版










2017.7.20. 「海洋いた恩師 2012版」 リニュアルオープン

  「新 海洋の礎を築いた恩師 2017」 版をご覧下さい



北九州市若松区洞海湾。そこに掛かる若戸大橋。すぐそばに若松の街がある。その町で育った先輩、師匠、そして恩師。私を息子として遊んでくれ、一人前の社会人に育ててくれた恩師を偲ぶ


  海洋磯釣倶楽部の歴史に生きる恩師

若松で誕生した海洋磯釣倶楽部のおいたちは、先輩達の温かい愛で育まれた歴史があった。

「たかが釣り、されど釣り」ということわざは 遊びの釣りでありながら、深く没頭するプロセスを、生き甲斐に変え、「釣りの心」を極めることにある。

私達はたくさんの人々の手を借り、趣味である釣りを、海洋磯釣倶楽部を通して楽しんでいるが、そのクラブの価値観を貴めてくれたのが先輩達であり、亡くなられた恩師である。

「海洋のおいたち」は先輩達の歴史でもある。

私が関わった恩師、仲間達をここに紹介し、私達の励みとしたい。


                           上瀧勇哲






 初代会長 保里剛太郎さん


海洋が、まだ生まれたての頃、保里会長と四国愛媛県佐田岬や大分県尾浦、山陰の青海島に随分釣行した。

会長のリュックの中にはいつも「ワンカップ大関」が3本、
一泊旅行のときは6本入れていた。

これにツマミや愛妻弁当を詰め込み、いつも花見に行く雰囲気

「ジョーさん、飲みィ、食いィ」といつも誘ってくれた保里会長が懐かしい。

20代の私は酒が嫌い、酒飲みの相手をするよりは釣りがしたい、ばかりであった。

少々冷たいところがあったかも知れないが、その分、同行していた内田さん、益田さん、東さんが、いつも釣り場で宴会をしていた。

その遊び心がいつかしか海洋に根付いたようだ。

職場の上司であり、温厚で太っ腹。

人間の大きさは社内随一。

しかも面倒見が良く人当たりが良いので誰からも好かれた。

海洋はそんな保里会長を望んでいた。

若松高校ではラグビー部のキャプテンをやり、あの有名な若松敬竿先生と同期生であることを後で知った。

そんな保里さんから同僚が羨ましがられるぐらい社内で可愛がられた。

会長宅で常会や新年会、総会を開催したこともあった。

奥様や一人娘の美由紀ちゃんまでジョーさん、ジョーさんと呼んでくれた。
賑やかで明るい家庭は大好きだった。


しかし、転職されてクラブから身を引いた保里さんではあったが、私は酒を持って良く遊びに行った。

あのとき、あの笑顔、いつも大歓迎の保里さんだった。    


                     平成5年ごろ
















 
相談役 内田小二郎さんのこと

その保里さんと義兄弟の内田さんは、職場の大先輩である。

しかもウキ釣りの師匠さんでもあった。

クラブ発会前よりのお付合いで、随分と私やクラブの面倒を見てもらった。

その内田さん、身体障害者で、左足全てが義足でありながら一般人以上に「仕事」と「酒」と「釣り」は凄いものがあった。

いつもご自分のポリシーを持ち、なかなか持論を曲げないから職場で良くケンカをしていた。

しかし私には愛弟子のように仕事も釣りも、全てに可愛がってくれた。

浮子ふかせ釣りが得意で、細身のOHヤマメ針の愛用者。

波止の小物釣りが主で、誰よりもクロ、チヌ、メバルを良く釣った。

聞いてくる釣り人には親切に仕掛けを教え、釣りの先生と親しまれた。

そして今のオーナーカットメバル鈎は彼の持論の針としてクラブ員が多用している。

山陰の波止、大分県蒲江、宮崎県門川の波止まで、毎週のように誘われたあのころ。

磯釣りの場合でも彼だけ渡船基地の波止で釣りをし、磯釣り組より内田さんの釣果がまさっていた。

そんな家庭の中、奥様や一人娘の由美ちゃんとも大の仲良しで「ジョーさんが内の由美をもらってくれたらナァー」が口癖だった御夫婦。

あのころの由美ちゃんはまだ小学校5~6年生。

酒を飲みすぎて肝硬変、病院に見舞いに行くと「ジョーさん、退院したら蒲江尾浦の波止でチヌ釣りしようナァ」 

そばで聞いていた奥様が「なに言よっとねエー」

それでも内田さん「まだ50㎝オーバーのチヌ釣ってないケェー、

番匠川の方がイイカー」などなど、死ぬ間際まで釣りの話し。

早く去ってしまった内田さん。

横浜で由美ちゃんの結婚式、内田さんの親友としてお祝いの言葉、

涙でくれた奥様も後を追うようにして去ってしまった。           

                             平成3年ごろ















  楽しい釣りをする萩原金安さん


会社に入社して間もない私を、始めて釣りに誘ってくれたのが萩原さんだった。
吉田印刷磯釣倶楽部の初代会長として、楽しみを多く教えてくれた方である。

決して人前に出ることなく、脇役で人を表に出す方で、脇役でありながら場を盛り上げる、楽しい会話とユーモアのある話し方は、たくさんの人から好かれた。

そんな親父のような萩原さん家に随分通った。

息子さんの萩原康満さんは海洋磯釣倶楽部の第一期生であり、釣りと同じく、創価学会の上級青年団員として活躍された方である。

おばさんからもジョーさん、ジョーさんと家族で可愛がってくれた、そんな萩原さんは定年してまもなく肝臓を悪くされ、去ってしまった。      

                                     昭和55年ごろ







  育ての親 空閑敏明さんのこと


私を、磯釣りに、引っ張り込んだのは、会社直結の上司、空閑敏明さんだった。

高校を卒業し、若松の吉田印刷所に入社した。

「どの職場が良いか」と吉田正人社長より問われ「何処でも良いです」と答えたら「何でもしてもらうが、まずはオフセットから学んでくれ」ということから会社勤めが始まった。

早速、空閑課長から案内され、全自動オフセット印刷機パールというスイス製機械の紙積みからスタートした。

この時より海洋磯釣倶楽部となる元祖が、この職場より始まったことになる。

萩原、竜野、中原、荒木、奥村、そして浜部利治さんと、たくさんの先輩が居たが、この中でも空閑課長が、なぜか仕事の延長戦の釣りの小間使いとしてこき使ってくれた。

そのイメージが私の人生、生き方を変え、釣りクラブの世話係としてのスタイルを、植えつけてもらったような気がする。

課長と仕事以外でも一緒に魚釣りで遊べることは、色んな面で有利でもあったし、人間関係を、もっと広くアピールしたことになる。

課長の奥様の親戚になる、下関市川棚に住む石橋さん。

佐賀市内の空閑さんの実家等へ、泊りがけの釣りを良くした。

特に川棚の石橋さん家には個人でも良く遊びに行き、お魚と交換の野菜をたくさん貰い喜んだこと、色々………。

19才になり、マイカーを購入した途端、釣り専用車になってしまった。

この時より釣り猛者達が私に誘いをかけ、遠征した磯釣りが始まる。

当時は車の免許を持つ釣り人は少なく、ましてはマイカーを持つ時代ではなかったから、空閑課長から随分魚釣りの指導をされた。

特に宮崎県門川の磯には毎週のように釣り人を変え釣行した。

勿論タダで。

藤崎さん、中西さん、内田さん他、職場の大先輩達や阪田インクス所長、営業の遠藤さん、会社取引先である石鯛マンの板橋さんのおかげで

空閑課長が狂ったようにホイホイ行った

「大ビロー・タツガハナの石鯛釣り」と「ブリバエのシマアジ釣り」

① 5月、6月、7月は、月4度の釣行が最高で、石鯛を毎度釣って帰る先輩達。
② イセエビのオミヤゲ付き
③ 船長の奥様と娘さんが作った手作りのイモ饅頭と蒸かしパンが旨かったこと。
④ 魚を釣りきらない私にいつもオミヤゲがあったこと。
⑤ 船長さんの娘さんもらったら釣りがタダで出来ると冷やかされたこと。
⑥ 釣りの楽しみ方。
⑦ お付合いの仕方。
⑧ 釣りマナー。
⑨ そして仕事。

空閑敏明さんという方を知って
「釣りは遊びで、楽しむもの」と教えられ、色んなところに連れて行ってもらいながら、たくさんの人々との出会いを導いてくれた。

仕事を教える時は上瀧。遊びのときはジョーさん、と、使い分ける空閑課長は、私の人生の恩師であった。


                                     昭和52年ごろ



















保里さん、内田さん、萩原さん、そして空閑さんは、海洋の基礎、気風を育て、私達を最後まで可愛がってくれ、趣味としての釣りを、全うした方です。

その師匠たちは、それぞれに50~60才ほどの年齢で、この世を去りました。

海洋磯釣倶楽部 の歴史をかいま見ると、様々な方々が、このクラブに入門し、楽しみを分かち合い、釣りの和を知り、築いていった、生い立ちがあります。

過ぎ去れば過去の想い出となり、それぞれの生き方、人生観を見い出すことになりますが、事実は海洋磯釣倶楽部を、みんなで育て、築いた仲間であり、楽しい日々を、一緒に過ごしたことなのです。

私達は、その先輩の想いを大切にし、現実を観ることが大切なのです。

その上で、末永く海洋磯釣倶楽部の伝統が引き継がれ、後輩に託すことが大切です。

この事を、恩師、先輩の想いを、稿として、アピールしました。
                     

                      2006.6.  上瀧勇哲


※この稿について、想い出話しなどありましたら、ぜひ、お便り下さい。お待ちしております。















            海洋磯釣倶楽部
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