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皆さん今日は、早速、「ようこそ海洋磯釣倶楽部」のホームページを見てくれてありがとうございます。
このページは、会員さんと、釣り仲間、家族皆さんが、クラブを通してコミュニティーした日々を、「想い出のページ」として、投稿するコーナーです。

  「我が釣りの回想録」コーナーでは

「貴方の釣りをアピールすること」や
「昔こんなことをした、楽しんだこと」
「先輩から後輩へ引き継ぐメッセージ」や
「釣界にメッセージを送ること」等、皆様の稿を頂いて、ページを増してゆきます。

今度は「海洋20周年記念誌」の中で記載された稿を紹介します。
 


 


  海洋の家族慰安会、想い出の秋吉台


昭和57年の春だったと思います。
クラブ主催の家族慰安会で秋吉台とサファリパークへ行くことになりました。

そもそもこの企画は若松区の二区公民館で常会をしていたおり、会議の中で
、釣り以外の家族慰安会も楽しいのではないか、という発想で私が提案し、
皆が協力して実現できました。

もっとも一番ネックだったバスが私の関連会社で借りられるところでしたからラッキーでした。

三幸自動車のマイクロバスを1万円の借賃で準備しました。

 

当日朝8時に吉田印刷所アパート前の集合場所へ行くと、予定の人数より多いのです。

通路にも、乗車口にも、それぞれクーラーや新聞紙を置いて座り、定員オーバーで出発です。

 

途中、戸畑の浜部辰雄さん家族を乗車すると益々大変なことになりました。

それでも若戸大橋 関門橋 中国自動車道を走り車内は大人も子供も大賑わいでした。

三弥 I Cを下りたとたん、おまわりさんが検問時の様に道路脇へ車を呼び込んでいるのです。

「ドキドキ」しながら「定員オーバーでやられた」と思いました。
ところが実は交通安全キャンペーン中で菓子や風船等を配っていたのです。

子供達は大喜びで車の窓から全員が手を出して貰ったのですが、
私はヒヤヒヤで早々に車を出して「ほッ」としたものです。

しかし、定員28名のバスに40名頃、しかも荷物が沢山あるので車内はパニック。
運転手もパニック。
そして重量オーバーで車はとろとろ走ります。
でもなんとか秋吉台の山頂まで登り切ったバスが、やっとサファリパークに着きました。

サファリパークにはバスのまま入場し、間近で見る動物達に大人も子供も大喜びで、
計画した私達もとっても嬉しかったです。

その後、秋吉台の広場ではそれぞれの家族の手作り弁当を広げ、皆でワイワイと昼食を済ませバレーボールやバドミントンをしたりで楽しい一日でした。 

無事に若松まで戻ると子供達が「運転手さんありがとうございました」と挨拶しながら下りて行くのです。

その言葉を聞きながら、ヒヤヒヤ、ドキドキの一日は、
お世話して本当に良かったと思うのでした。

秋吉台のバスハイクは大成功でしたが、その当時の子供達はすっかり大きくなり、結婚した女の子が9組、勿論私の幸子も昨年結婚し、今年は久美子も結婚しますので、時のたつ早さを感じます。

今では新しい若い会員さん達も増えましたので
「またこんな家族慰安会が出来たらいいなァー」と昔を想い出しています。

数日後の常会時、バスが定員オーバーだと言えず、会計だった大庭さんはサファリパークの入場券を定員分しか買わなかったそうです。

そんな面白いお話や苦労話がたくさん良い想い出に残っています。

なにごとにもお世話する大変さ、苦労して本当に疲れた後の一杯の旨さ。そして充実感はお仕事でない趣味だから余計に楽しいのですね。

皆さん、ハートの中に楽しみの快感を詰め込みませんか。 
                     






 


     
オーナーばり EN 対馬 キス百万円を釣ろう 


私達釣り人に夢を与えてくれる釣り大会は色々あるが、小さな大物「キス一匹に百万円」という高い賞金を掛ける大会は聞いたこともないし考えたこともない。

このビッグイベントを私の大好きなオーナーばりさんがやってくれた。

この度はこの大会に参加した想い出話を
「海洋磯釣倶楽部20周年記念誌」に残しておきたいところでペンを握った。
                                               
昭和63年6月、兄より『キス百万円を釣ろう』の大会が長崎県対馬であることを聞いた。

このアイディアはオーナーばり宣伝広告企画室の近野寿雄さんが提案し、
兄がその協力と言う形で開催されたと聞いている。

当時の対馬は巨キス時代で、私達「海洋」のみならず、私の勤めるTOTO機器くさみ工場の釣同好会も年に1~3回の釣り大会と個人的な釣行も年に4~5回は対馬へ大ギスを求めて行っていた。

兄のキス記録はTOTO釣り部の釣り大会にオブザーバーで参加したとき美津島町の塩浜波止で34.2㎝(実寸)を釣り、その年の九州磯釣連盟のギネス記録となり、大阪の週刊 釣サンデーのキス年間チャンピオン賞もとった巨ギス。

勿論オーナーフックメイトの魚拓大会にも提出したしろもの。

OH投キス13号鈎で釣った新聞記事で、中道社長の知るところとなり、
この大会が実現したそうだ。

このキスで気分を良くした兄や仲間達が大挙して対馬へ押しかけ、
随分29㎝以上の大ギスを釣ったものだった。

因みに私の自己記録33.2㎝(実寸)は三根湾で釣り、32.6㎝(実寸)は紫瀬戸で釣っているからこの対馬での巨ギス釣りは、とにかく気合が入っていた。

そのような雰囲気の中、オーナーばりさんが『対馬で百万円のキスを釣ろう』という事を聞いて私は大喜びで参加した。

第1回大会は昭和63年6月11日に開催されたが、
この大会は34㎝以上のキスを釣った方に百万円というスタイルだった。

しかしこの34㎝という大きさは主催者の近野さんも分かっていないと思うが、
この実寸はそう簡単に釣れるものではないと思った。

全日本サーフや九州磯釣連盟の記録からしても年に1匹でるか、
でないかぐらいの大きさなのだ。 

当日は全面協力する形で海洋の会員さんが、小倉北区浅野対馬フェリー前で受付し、オーナーばり 中道茂之さんらと一緒にフェリーに乗船し、ワイワイ賑やかな船の旅となった。

早朝、比田勝から南下する兄と近野さん、釣紀行の尾田編集長とペアーを組んで国民宿舎「対馬」で会場準備した。

その後、釣り場の阿連や仁位で34㎝を狙ったが不発。

この大会を応援する全日本サーフ 伊丹会長や、大阪サーフの会員さんらが大挙して参加し、大会を盛り上げたが残念ながら34㎝オーバーはでなかった。

その年の10月23日、もう一度しきり直しということで、今度はエントリーとして海洋から浜部、弟の周作、兄は行かなかったがオブザーバーで参加し、大会のお世話をした。

それでも34㎝クラスの大型はでなかったが、型の良いキスが越高で釣れ、岡山グリーンキャスターズの足立幸義さんが31.1㎝で優勝した。

第3回の大会は宣伝効果も大きく、300名のエントリー大会となり、大会のお世話係で海洋は12名も参加した。

しかも釣り場の案内や釣り方を教えてやる等、正直いって大ギスどころではなかったかも知れない。しかし兄を始めとして皆、大好きな中道社長、近野さんの応援をした。


釣果の方もそこそこ釣れたようだが、仁位や阿連に案内して、中道社長さんや、月刊 潮目の大森さん、横浜の早乙女さん、兵庫の上野さんもキス初体験して「こんなところで」「こんなデッカイス釣ったのは生まれて始めて」と皆喜んでくれ、大変嬉しかった。

私もお世話した甲斐があったが、兄も寿命が5年縮まったと言っていた。

しかし終わってしまえばこんなにも楽しい、充実した、思い出に残る釣り大会は今までにない。

お世話したことを誇りに思うし、又こんな大会をお世話したい。

オーナーばりの皆様はじめ、釣りをされるお仲間の皆さん、今後とも海洋磯釣倶楽部をよろしくお願いします。

  平成8年11月 稿                上瀧哲郎


「我が釣りの回想録」シリーズは、ズーッと続きます。
会員さんはもとよりお友達皆様の原稿等、お便りをお待ちしています。
宛先は会長 





 魚釣りとの出会い
                  平山義隆

小学校6年生の頃だったと思う。

近所のひとつ年上の悪ガキに連れられ、近くの海で、生まれて初めて魚釣りというものを体験したが、今でもその時の出来事を、鮮明に記憶している。

1本物の竹竿にハリと糸を結んだだけの、今思えば極めてシンプル・・・というより、いかにも原始的な仕掛けに、掘ったばかりの小ケブを付けて海辺に置いておくだけなのだが、ナントこれに、子持ちの飛び切りでかい海タナゴが食いついたのであった。

その後2匹を追加し、意気揚々と家路を急ぐや、喜色満面の自慢話。

魚好きの父や母がとても喜んでくれ、煮付けにしておいしく食べた(本来はあまりうまい魚ではないのだが・・・)ことが、いい思い出として残っている。

ビギナーズラックは怖いもの。

それからというもの、魚信に竿先が弓なりにしなる光景がいつも頭から離れず、何かに取り憑かれたかのように、休日のたびに魚釣りに精を出すようになる。

時代が良かったのであろう、毎回、確実に獲物を手にしたものであった。

そんなある日、少し離れた場所で、こちとらとは異質なスタイルの釣り人を発見する。

目を凝らして見ていると、釣竿を振り回してなにやら遠くに投げ込んでいるではないか。

まもなくこれが投げ釣りという、釣りの分野の1スタイルだと知るのだが、この時の光景が少年だった私の目にはとてもカッコよく映り、脳裏に焼きついて離れなくなるのであった。

わずかばかりの小遣いをコツコツ貯め、しばらくして、安物ではあったが投竿とスピニングリールを手にすることになるのは、自然の成り行きであった。

その後、幾度か磯釣らしきことも手を出したが、生来の面倒臭がり屋で繊細なことが苦手な性分のせいか、長くは続かなかった。

それに引き替え、投げ釣りの持つダイナリズムとスポーツ性は、よくよく無精者の私には相性がよかったのであろう、以来、ほとんど投げ釣り一辺倒で、40年が過ぎた。

手元に一冊の本がある。

「全日本磯釣り場ガイド第2集 北九州編」という代物。

釣りを覚え始めたころ、書店の片隅で何気なく見つけて買った本で、昭和41年7月初版発行とある。

西東社刊、定価340円。

磯釣りとあるが、投げ釣りに関する情報も多く載っており、思えばこの本こそが、我が釣り人生(そんな大層なことでもあるまいが) の始まりに、指南役として記念すべき著書となった。

この本の著者「淀谷一竿 氏」が、この世界では大変著名な釣り師であり、高名な文化人であることを知ったのは、後年のことであった。

生まれ育った門司港周辺の地図には、まだ関門橋はなく、当然、今は西日本有数のコンテナ基地となった太刀の浦は、埋め立てられていない。

「和布刈に行く途中の菊人形横の岸壁」、「観光施設としては、国民宿舎めかり山荘、水族館、パゴダ、ゴーカート・・・」 などの記述が、当時の状況を思い起こさせ、今となっては大変懐かしい。

その後、買って読んだ本は、千冊を下らないが、私が手垢を付けた頻度で言えば、この本が間違いなく、それもダントツで1番のはずである。

光陰矢のごとし、あっという間に過ぎ去った40年であったが、このガイドブックを頼りにポイント探り、魚釣りを覚えさせてもらった。

言わば座標軸のような存在であった。

移り往く時代の変遷とともにセピア色に変色してしまったが、今でも大切に書棚にしまっている。

中国には、「幸せになりたかったら、釣りを覚えなさい。」という諺があるそうだが、この本に出合えたお陰で、こうして長い間、趣味を持ち続けられ、又、たくさんの素晴らしい人に出会えたような気がする。

そして、きっと幸せなのであろう・・・。魚釣りとの出会いに感謝したい。


H18. 10. 25     
   (ペンネーム) 関門のトビウオ

PS. オールドファンでこの本に興味のある方は、ご一報ください。


 






 私の釣り人生

                 ペンネーム    
                           星野正紀

釣人生などと題せば、大層な事を書かなければならないのかも知れませんが、ただ単なる、これまでの私の釣りの回想です。

釣り好きの父、祖父に恵まれ、幼少の頃より釣りをしていた私は、初めて竿を持った時の事を覚えていません。
その位、幼い時から私の釣人生が始まっていたのです。
海、川、池、渓流など様々な自然環境の中での釣りは、私にとって良い思い出もあり苦い思い出もあります。

冬の寒い日、時折雪が散らつく中、父と父の会社の人と私の3人で、福岡市を流れる室見川の上流に位置する、曲渕ダムへワカサギ釣りに行きました。

昭和50年代は九州のダム湖では、そこそこにワカサギが釣れていた時分です。
たき火をしながら、熱いカップラーメンをすすり、鈴鳴りで釣れる美しい魚をその場でカラ揚げにして食べた事を鮮明に覚えています。

数年前、この美しい魚がもう一度釣りたいと思い、油木ダムへ釣行したのですが、冬だというのに、近くにいたルアーマンが40㎝クラスのブラックバスをコンスタントにヒットさせているではありませんか。
九州各地のダム湖では同じ様な状況の場所が多く、ワカサギに会えなくなった事を残念に思います。

船釣り初体験は小学校2年生の時。
父の叔父さんの所有していた小型船で、糸島郡の姫島近辺で5目釣りをしました。
マダイ、アラカブ、カワハギ、マハタと良く釣れ、極めつけは大きなマダコ。
体の小さかった私にはとても上げきれずに、代わって父が船上にブリ上げた時には大変驚きました。
初めての船釣りでしたが船酔いなど全くせず、陸に上がった時は、まだ船の上で揺られているような気分だった思い出があります。

小学校、中学年から高学年にかけては、学校から帰ると宿題などはそっちのけで、毎日のように近くの池や川で釣りをしていました。
吸い込み仕掛けで大きなコイを釣ったり、紅サシを付けエに、クチソボやモロコを数釣ったものです。
これらの小さな魚達は、今でも生息しているのか心配になるところです。

中学校に入ってからは行動範囲が広くなり、自宅から自転車で一時間程で行ける、福岡市中央区の荒津岸壁や赤灯台へよく通いました。
青ケブをエサにちょい投げでハゼや手の平クラス主体でしたが時折30㎝近いカレイが結構釣れていました。
ノベ竿にウキ仕掛けでウミタナゴを大漁しましたが、近くを通った船の大波が防波堤を洗い流し、クーラー他タックルボックス全てを失った苦い経験があります。

中学時代の忘れられないもう一つの思い出は、ヤマメを釣った事です。
宮崎県西米良村の一ッ瀬川で一投目にして18㎝を釣り、初挑戦にしては上出来の23㎝も釣り上げました。
ナイロンラインの0.6号の仕掛けにヒヤヒヤものでした。
私はこの2尾しか釣れませんでしたが、あの美しい魚体には感動しました。
それから数回ヤマメ釣りにチャレンジしましたが、自己記録を更新できず、今に至っています。

高校一年生になると、生活スタイルや友達環境が変わり全く釣りに行かなくなりました。
そして三学期に中退し、一時私の釣人生は途絶えてしまうのです。
21才位までは、酒、パチンコ、麻雀に忙しく、釣りという趣味を持っているのも忘れていました。
そんな時、会社の先輩に「船でアジ釣りに行こう。」と誘われました。
当時、飯塚で一人暮らしをしていた私は、釣道具一切無く、近くの釣具店に一式買いに行きました。
そして久々の釣りで40㎝級の大アジを入れ食いさせ、再び釣りの爽快感を味わったのです。
それからもその先輩とは、貸ボートでキス釣りに行ったり、ハゼ釣りに行ったりと良くお世話していただきました。
独身の私のことを思って、釣行の際には必ず私の分のオニギリも持ってきてくれ、夜には釣果で一杯やらしてもらった思い出も忘れられません。

24才に結婚、それからも、ちょくちょく妻と子供を連れて、小物狙いで宗像方面に出掛けていました。
そんなある日、いつもの様に釣川河口でハゼ釣りをしていた私達の隣に、一人の釣り人が現れました。
その人が仕掛けを組竿をひと振りすると、私の投げている距離の何倍も飛んでいるのです。
近くへ行き、「オモリは何号ですか?」と尋ねると20号という返事でした。
私も同号数のオモリを使用していましたが全々飛ばないので、何かが違うと思いその人をよく観察しましたが、分かったのは、自分の使用している竿とは明らかに違い、竿尻からリールシートまでが長いという事だけでした。

それから数日後、書店へ行き「週刊つりサンデー」発行の本を購入しました。
その本の中で投げ専用の竿とリールがある事を知り、初めて力糸という存在を知ったのです。
又、糸が細ければ抵抗が少ないという事も…(単純に考えてもそうなのですが) これを機に竿、リール共投げ専用のものをそろえ、投げ釣りと言える釣りはここから始まったのです。
そして釣行を重ねるに連れて、竿もリールも有名メーカーの物が欲しくなり、小遣いの大半をつぎ込んだのですが、釣果には一切関係のない事でした。

それからも相変わらず宗像方面で、キス、カレイの小物釣りばかりしていた私は、「投げ釣りマニア」という本に出会いました。場所によっては、チヌ、マダイ、大型カレイ等、色々な魚が投げで釣れると知り、その様な釣りがしたいと思う日が続きました。

そんな頃、週刊つりニュースの九州投竿さんや京都テツさん、釣りのファン子さんのレポートを見て、サーフで活躍している海洋磯釣倶楽部を知りました。
私も一緒に釣りをしたいと思いましたが、なかなか踏ん切りがつかずに同倶楽部の存在を知ってから約2年後、思いきって上瀧会長にパンフレット資料の請求をし、電話で話し入会することになりました。

入会後は、色々な情報が耳に入る様になり、月例会などでも今まで行った事のない釣り場へ足を運ぶ様になりました。
釣りスタイルは主にサーフですが、お誘いがあれば色々な釣りに挑戦したいと思っていますので、皆様声を掛けて下さい。
そしてこれからもよろしくお願いします。
私の釣人生はこれからいつまでも続く事でしょう。

平成18年9月15日






 確認したはずが……

                  ペンネーム  パワーエアロ

                        

『げ~ヤバイ。』

先日、はるばる大分の鶴見へ家族で釣りに行って来ました。

朝9時頃、自宅を出発し、途中でエサもゲットし、夜ごはんの材料、その他もろもろの買い出しも終え、やっと鶴見へ到着したものの、あまりの風の強さに今度は釣り場探しでウロウロ。

結局、地元の釣友に電話で聞いて、やっと決定。

さすが、本当に風もあたらず最高の場所ゲット。

しかし、時間はもう夕方。

嫁は夕食のキムチ鍋の準備。

子供はサビキ。

私はさぁ~釣りの準備だぁ~と思って道具を出していたその時、エー、アレー、なぁ~い、ウソやろ、な・な・なんと、仕掛け一式を家に忘れてきたあ~。

オレとした事がどうしよう、と思ったその時、そういえば市販の仕掛けをダッシュボードに入れていた事を思いだし、仕方がないのでそれで釣りをする事に。

しかし、一気にやる気がうせてしまい、とりあえずは投げていたが、ルミコも無いので当りが見えず、結局、早々とあきらめて就寝する事に。

次の日の朝、早々と起きて場所移動。
そこてでも一応は、投げたものの全然当りも無く、そのままの状態。

サビキをしていた息子は、釣れないので嫁といっしょに波止のうしろの広場で野球をし、娘はもくもくとサビキ。
だけどこれもまた、当りは無く、そこで、私は子供のサビキ仕掛けに私のエサの虫を付けて投入させると、な・な・なんとカワハギとアラカブの入れ食い状態

両どなりの人達は全然釣れず、なんであの子だけ釣れるんだぁ~みたいな感じで見られ、私はすっかり子供のエサ付けと魚はずし係りとなり、自分の釣りはあきらめ状態。

その後、エサも無くなり帰る事に。

大漁で満足だった娘と、野球で遊びつかれた息子は、帰りの車の中で爆睡状態。

子供にとっては楽しい釣り、私にとっては…… 釣りでした。        

平成18年11月1日 

                             羽良和久




時代の波に逆らわぬ生き方

最近つくづく想うことがある。

私は今、自然界で遊ぶ、釣りクラブの世話係と、釣ライターとしてのPR活動、それに、およばずながら九州磯釣連盟 組織の中で、支部、地区の応援メッセージを色々な形で助援している。

又、ボランティア活動として、(財)日本釣振興会と関わる行事の中で、多くの仲間を引きずり込んだ、釣り場環境美化、釣り指導員、等でお世話係をしている。

釣り以外でも、今年は特に地域(街)、自治会の世話人となり、住んでいる私達に直接関わる祭りや伝統文化他、多彩な行事から、ライフスタイルに溶け込む住民参加の街作りの一役になる、水資源環境と稲作農業。

緑と自然環境を整える事業のサポート等、市政とタイアップしたスタンスから多くの人々と協力しながら活動している。

それらのことについて最近、つくづく時代を感じるのである。

自然界に携わる人間達の生き方について様々な議論、立場がある中で、今から未来を観つめるとき、つくづく時代の流れの早さを体感しているのである。

もうすぐ60才を迎えようとしている私にとって、長く生きた人生観を養ってくれた自然界との関わりは、ただ趣味としてではなく、人間を大きく進歩させ、強く、あるいは優しく、おもいやりのハートをもつ人間に近づきたいと自我自問している。

そのことについて、多くの人間達、人々が同じような立場でなく、人それぞれ考え方、生き方、ライフスタイルの多様化といえばそれまでだが、自然界に生きている価値観があまりにも違いすぎるのである。

時代は変わる。

人々の生き方も変わる。

当然かも知れないが、古き良き時代は、過去の遺物になるのだろうか、それとも一生懸命残すことを伝統として、あるいは文化として継承するスタンスを今、私達に求められているような気がする。

時代は流れても、良いこと。
良いもの。
美しいこと。
人下美とか自然美は、できる限り次世代の人々に継いでほしい、観てもらいたい、ふれて、さわって感じて、もらいたい。

今、私がしていることは、その小さな一部分だけかも知れないが、自己満足しながら一歩、一歩、積み重ねている。

時代の中で。

2008年8月 夏

                     上瀧勇哲

 












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